カルチャーラジオ 芸術その魅力 千利休と茶の湯の美

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「千利休と茶の湯の美」(1)<全13回>

【日本の美の二面性(1)古今集的な王朝美】 千里金蘭大学名誉教授…生形貴重
日本へのお茶の伝来は、平安時代の嵯峨天皇の時とされ、紅茶(発酵茶)が最初とされます。当時は唐の文化を積極的に取り入れようとしていた時代でした。しかし、このお茶は日本人の口に合わなかったのか根付(づ)きませんでした。その後、栄西禅師が禅宗を持ち帰る中で、もたらしたお茶(抹茶)が日本に根付(づ)きお茶の文化を形成します。今回はお茶の歴史を振り返ります。

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「千利休と茶の湯の美」(2)

【日本の美の二面性(2)中世和歌とわび・さび】 千里金蘭大学名誉教授…生形貴重
日本の茶の湯の文化には二つのルーツがあります。ひとつは広間で唐物の豪華な茶道具を飾り、大勢のお客を対象にして行う「書院の茶」。もうひとつは簡素な日本の工芸品を使い、狭い一室で少人数で行う「侘(わ)び茶」です。「わび」「さび」は本来否定的な感情や状態を表す言葉ですが、それを美しく感じて、かつ表現するのが「日本的な美」です。今回は「わび」「さび」の世界について考えていきます。

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「千利休と茶の湯の美」(3)

【書院の茶の湯の成立 バサラ大名の美意識】 千里金蘭大学名誉教授…生形貴重
鎌倉時代、南北朝の動乱期に登場してきた婆娑羅(ばさら) 大名は自身の財と権威を誇示するため、唐物をたくさん集めて飾り立て豪華な茶会を行いました。唐物を飾り立てるというのは権力や財力の誇示のみならず、美意識の自己表現でもありました。そして婆娑羅(ばさら) 大名の茶が洗練され書院の茶が生まれることになります。今回は書院の茶、成立の背景を探っていきます。

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「千利休と茶の湯の美」(4)

【唐物荘厳とわびの美意識との両立】 千里金蘭大学名誉教授…生形貴重
15世紀後半、茶の湯の美は豪華な唐物の道具類を飾り広間で多人数で行う「書院の茶」と、侘(わび)た趣の道具類を飾り小間で少人数で行う「草庵(あん)の茶」の二つが同時進行し各地で広がっていきました。二つの茶の湯の美意識は、やがて重なり合い、利休の茶の前提となっていきます。今回は文献を読み解きながら茶の湯の美意識について紹介します。

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「千利休と茶の湯の美」(5)

【村田珠光の美意識】 千里金蘭大学名誉教授…生形貴重
茶の湯は元々、茶葉や茶道具など、すべて外国から伝来したものでした。それが日本独自の変容を遂げ「書院の茶」「草庵(あん)の茶」が生まれ、そこから「侘(わ)び茶」につながっていきました。そして茶の湯が人間の成長にとって大切な道、茶道であると最初に言ったのは茶人の村田珠光であると言われています。今回は村田珠光が書き記したとされる「心の文」を読みながら、村田珠光の茶の湯についてご紹介します。

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「千利休と茶の湯の美」(6)

【堺の茶の湯と武野紹鴎の侘(わ)び茶】 千里金蘭大学名誉教授…生形貴重
千利休の茶の湯の師匠、武野紹鴎は戦国時代の堺の豪商で茶人でもあります。戦国の動乱の中にあって経済や文化が発展し当時の文化を担っていたのが堺で、商人にとっても茶の湯を学ぶことは必要不可欠でした。武野紹鴎は茶の湯や和歌を学び、新しい茶の湯の形「四畳半の茶の湯」を完成させました。「四畳半の茶の湯」とはどのようなものなのか、今回は武野紹鴎の茶の湯の世界についてお伝えします。

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「千利休と茶の湯の美」(7)

【利休の登場】 千里金蘭大学名誉教授…生形貴重
堺の町の豪商で茶人の武野紹鴎から、茶の湯を学んだ千利休は武野紹鴎の四畳半の茶の湯をさらに極め、侘(わ)び茶を完成させていきました。茶道の逸話を集めた「茶話指月集」には、千利休の孫、宗旦が利休について語った話が、宗旦の弟子によって記録され千利休の茶の湯の考え方や逸話が数多く残されています。今回は「茶話指月集」を中心にお話しします。

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「千利休と茶の湯の美」(8)

【戦国武将たちの茶の湯と利休の改革】 千里金蘭大学名誉教授…生形貴重
戦国時代、破竹の勢いで戦国大名として頭角を表した織田信長。信長は貿易で潤っていた堺の町を手中に収め、天下取りの足がかりとしました。そして、それまで遊びや社交や商談の場とされていた茶会を、戦の結束のための茶会や戦勝祝いの茶会など武家の儀礼として茶会を利用し秩序作りに役立てました。そして千利休を起用することとなります。今回は戦国武将の茶の湯と利休の改革についてご紹介します。

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「千利休と茶の湯の美」(9)

【信長と利休】 千里金蘭大学名誉教授…生形貴重
織田信長は武士の秩序作りのため、茶会を儀礼化し統率を図りました。その茶会を行う上で千利休を重用しました。利休は信長の元、その期待に応えました。それまでの茶道具など見立てや外来の茶椀(わん)ではなく、お茶を飲むための専用の茶碗(わん)を依頼して作らせ、唐物と同等に扱う「文化の下克上」を行いました。今回は信長と利休についての逸話を読み解きながら信長と利休の関わりをご紹介します。

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「千利休と茶の湯の美」(10)

【秀吉と利休(1)】 千里金蘭大学名誉教授…生形貴重
茶の湯の世界で文化の下克上を行った千利休には、利休弟子七人衆と言われた武将たちがいました。その弟子衆は信長につき従い下克上を生き抜いた優秀な武将で、近畿を中心に活躍していました。信長亡き後、秀吉が天下人となるには、この武将たちを力が必要でした。秀吉はこの武将たちの心をつかんでいた利休を政権のすぐ近くに置き、天下統一を目指すのです。秀吉と利休の関わりをご紹介します。

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「千利休と茶の湯の美」(11)

【秀吉と利休(2)】 千里金蘭大学名誉教授…生形貴重
秀吉は天正10年明智光秀を滅ぼした後、一挙に信長の後継者に上り詰め、天正13年には関白に、朝廷から豊臣姓を賜りました。そして禁中茶会に臨む利休は、この時「利休居士」を賜ります。利休は天下人となる秀吉の求める茶の湯のプロデュースを精力的に果たしつつ、自らの求める侘(わ)び茶の道も深めていきます。「茶話指月集」に語られる利休と秀吉の逸話を紹介しながら、二人の茶の湯についてお話しします。

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「千利休と茶の湯の美」(12)

【千家の茶の湯と大名の茶の湯】 千里金蘭大学名誉教授…生形貴重
利休が理想としていた茶の湯は、利休切腹後、息子の少庵と孫の宗旦により行われようとします。しかし少庵は大阪冬の陣で亡くなり、そこからほぼ20年、宗旦は病気で茶の湯の活動はしていませんでした。その間に金森宗和は優雅で高級な茶の湯を武家や公家に広げていきました。ところが病気が回復した宗旦が一畳半の侘(わ)び茶席を再現すると、利休の侘(わ)び茶が再評価されるようになります。

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